スタートアップを立ち上げるとき、多くの経営者は自分のアイデアや技術に大きな可能性を感じていると思います。
しかし、現実にはそのアイデアを形にして市場で売れるようにするまでには、数多くの壁があります。
特に、製品やサービスを開発した後に直面する「死の谷」と呼ばれる時期は、スタートアップにとって最大の難関と言われています。
死の谷を越えられずに事業を終了する企業も少なくありません。
この記事では、死の谷とは何か、その原因はどこにあるのか、そして経営者としてどのように備えるべきかをわかりやすく解説していきます。
死の谷(Valley of Death)とは
死の谷とは、スタートアップや新規事業が初期段階で直面する、最も資金繰りが厳しくなる危険な時期を指す言葉です。
製品やサービスの開発を終えた後、実際に市場に出して売上が安定するまでの間に発生します。
多くのスタートアップは、研究開発や試作品の制作に多くの資金を使います。この開発段階では、自己資金やシード投資、助成金などで資金を確保できることが多いです。
しかし、開発が終わっていざ販売を始めても、すぐに収益が上がるとは限りません。それどころか、量産体制を整えたり、規制への対応をしたり、マーケティングを強化したりと、新たな資金が必要になる場面が続きます。
この「売上が安定しない一方で支出が続く時期」に、十分な資金が確保できないと、どれほど優れた技術や製品を持っていても、事業を継続することが難しくなります。
そのため、死の谷はスタートアップ経営における最大の課題の一つとされています。
スタートアップが「死の谷」に落ちる原因
ここでは、フィンランドのカヤーニ応用科学大学の研究チームの論文で示された、スタートアップが「死の谷」に陥る主な原因を紹介します。この論文は、2000年から2020年までに発表された数多くの研究を体系的に分析し、死の谷を引き起こす要因をまとめたものです。
各業界に共通して見られる「死の谷」の原因を明らかにしたもので、スタートアップ経営者にとっては、自社が抱えるリスクを事前に把握するための重要な手がかりとなります。
原因1:資金不足
最も多く指摘されている原因は、やはり資金不足です。スタートアップは、開発段階で多くの資金を投入しますが、製品やサービスが完成しても、その後の量産体制構築やマーケティング活動にはさらに資金が必要です。助成金やベンチャーキャピタルからの投資があったとしても、製品化後の運転資金や拡販のための資金が足りず、事業を継続できなくなるケースが多く見られます。
原因2:資金管理の問題
資金はあったのに、使い方や配分を誤ってしまうことで死の谷に陥るケースもあります。例えば、開発に予想以上のコストがかかり、販売準備や市場投入のための資金が不足することがあります。また、資金計画が甘く、必要なタイミングで資金が足りなくなるといった資金繰りの問題も見逃せません。
原因3:インフラ不足
ハードウェア系や製造業系のスタートアップでは、インフラ不足が大きな障壁となります。試作品を量産するためには工場設備や特定の機器が必要ですが、そうした設備投資には多額の資金がかかります。レンタルやシェア施設を活用しても、費用面や技術面で限界があり、十分なインフラが整わないまま進めざるを得ないことがあります。
原因4:知的財産権の問題
知的財産権、特に特許やライセンスに関する問題も大きな原因です。特許出願やライセンス取得には時間とお金がかかります。知財戦略を持たないまま開発を進めてしまうと、せっかくの技術が他社に模倣されたり、投資家からの評価が下がったりして資金調達が難しくなります。特許取得が進まないことで、事業計画全体が止まってしまうこともあります。
原因5:組織内外の対立
スタートアップは、創業メンバー間の関係性が非常に重要です。メンバー同士で事業ビジョンやゴールの認識がずれると、意思決定が停滞し、進捗に大きな影響を与えます。また、投資家や外部パートナーとの間でも、製品や市場戦略について意見の不一致が起こりやすく、それがプロジェクトの遅延や資金調達失敗につながることもあります。
原因6:規制や文化的障壁
医療、教育、エネルギーといった規制の多い分野では、法規制や認可取得が大きな壁になります。例えば医療系であれば、薬事承認に数年単位の時間と大きなコストがかかることも珍しくありません。また、大学発ベンチャーなどでは、研究機関特有の文化とビジネスの文化の違いが障害になることもあります。アカデミアは論文成果や研究継続を重視する一方、ビジネスは利益とスピードを優先します。この文化の違いが、商業化を遅らせる要因となります。
原因7:モチベーション不足
研究者や技術者が商業化そのものに関心を持たないケースもあります。特に大学の研究者は、研究成果を論文発表することを最優先にしているため、ビジネス化に向けた活動を後回しにすることが少なくありません。また、商業化を推進するインセンティブや評価制度が整っていない場合、積極的に動こうとするモチベーションが湧かないこともあります。
死の谷に落ちないための予防策
スタートアップが死の谷を乗り越えるためには、原因を理解するだけでは十分ではありません。実際には、日々の経営判断やチーム運営の中で、具体的にどんな対策を講じるかが重要になります。
ここでは、スタートアップ経営者が現場で実践できる、死の谷に落ちないための対策を説明します。資金戦略の見直しからチーム作り、そして経営者自身のメンタル管理まで、どれも欠かせないポイントです。
対策1:資金戦略の再設計
まず最初に重要なのは、資金計画を現実的に立て直すことです。多くのスタートアップは、製品やサービスの開発に必要な資金だけを見積もりがちですが、それでは不十分です。開発が終わった後にも、量産体制の構築、マーケティング活動、営業活動、人件費、オフィス維持費など、さまざまなコストが発生します。
これらを含めた総額を正確に試算し、資金がショートしない計画を立てることが重要です。また、資金調達先も一つに絞らず、シード資金、ベンチャーキャピタル、銀行融資、助成金など、複数の調達ルートを確保しておきましょう。
さらに、売上の発生が想定より遅れることを前提に、計画を組むことが大切です。運転資金に余裕を持たせておくことで、予期せぬトラブルや市場変動にも対応できます。
対策2:知財・法務・規制対応の強化
知的財産(知財)、法務、規制対応を初期段階から進めておくことも重要です。特許出願や商標登録には時間もお金もかかりますが、投資家や事業パートナーからの評価を高めるためには欠かせないことです。知財を確保しておくことで、競合に模倣されるリスクを減らし、事業の信頼性も向上します。
また、医療機器や食品関連、エネルギー分野などのスタートアップは、規制対応が特に重要です。認可や許認可の取得には長い時間と専門知識が必要な場合が多く、これを後回しにすると、製品やサービスを予定通り市場に投入できなくなる可能性があります。
こうした分野では、最初から弁護士や規制対応に詳しい専門家と連携し、開発スケジュールに組み込むことが不可欠です。
対策3:組織力・チームビルディング
死の谷を乗り越えるには、創業メンバーやチームの結束力がとても重要です。スタートアップは少人数で意思決定をスピーディーに進めることが強みですが、その分、メンバー間の方向性やビジョンのズレがあると大きな問題につながります。
創業時から「何を目指すのか」「どこまでやるのか」など、ビジョンやゴールを明確に共有しておくことが必要です。将来、資金調達や事業提携、EXIT戦略を検討する際にも、この共有ができていないと意思決定が滞り、チャンスを逃すことになります。
また、外部パートナーやメンターと関係を築くことも大切です。自社だけでは気づけないリスクや改善点を指摘してもらえるため、経営判断の質を高めることができます。特に経験豊富な起業家や投資家からの助言は、事業を前進させるための貴重なヒントになります。
対策4:エコシステムの活用とピボット
最近では、スタートアップ向けのインキュベーターやアクセラレーターが増えており、資金調達やメンタリング、ネットワーキングの場を提供しています。こうした支援機関を積極的に活用することで、経営者自身が一人で抱え込まずに済みます。
また、当初想定していたビジネスモデルやターゲット市場が、期待通りに進まないことも珍しくありません。そうしたときには、柔軟に方向転換(ピボット)することが重要です。
ピボットとは、事業の軸や提供価値を大きく変えることですが、単なる思いつきではなく、客観的なデータや顧客の声をもとに判断する必要があります。最初のアイデアに固執しすぎず、市場のニーズに合わせて変化する姿勢が、死の谷から脱出する鍵となります。
対策5:自己効力感と経営者メンタルの維持
経営者自身のメンタル管理も軽視できません。死の谷を乗り越えるには時間がかかり、資金繰りやチームマネジメント、予期せぬトラブル対応など、心身ともに大きな負担がかかります。精神的に追い込まれると、冷静な判断ができなくなり、経営判断に悪影響を及ぼすことがあります。
無理をしすぎないこと、信頼できる仲間や相談相手を持つこと、必要に応じて専門家に相談することが大切です。
メンタルが安定していることは、経営者自身だけでなく、チーム全体の士気にも大きく影響します。
死の谷を越えて成長につなげる
死の谷を越えるためには、原因の理解や予防策の実行だけでは不十分です。
経営者自身が市場の変化や顧客のニーズに敏感であり続けることが求められます。テクノロジーは日進月歩で進化し、競合環境も常に変わります。そのため、定期的に事業モデルを見直し、当初のプランに固執するのではなく、必要であれば大胆に方向転換する柔軟性を持つことが重要です。
さらに、近年注目されているオープンイノベーションも有効です。大企業や他のスタートアップとの協業を通じて、技術やサービスを補完し合い、単独では到達できない市場へアプローチすることが可能になります。
大手企業とのPoC(概念実証)プロジェクトや共同開発に参加することで、技術の信頼性や実用性を高められるだけでなく、資金調達や販路拡大にもつながります。
死の谷を越えることは簡単ではありませんが、原因を分析し、具体的な対策を積み重ねていくことで、経営の基盤が強化され、市場での競争力も高めることができます。
参考文献:A. Al Natsheh, S.A. Gbadegeshin, et al. (2021). The Causes of Valley of Death: A Literature Review.